物価に連動する債務や収入を持つ事業会社や年金が、物価の上昇か下落のどちらか片側だけをヘッジしたいときに出てくる取引です。
物価の上昇率に上限と下限を付ける権利
インフレ・キャップは、物価の上昇率がストライク(行使価格)を上回ったとき、その分に想定元本を掛けた額を売り手から受け取る権利です。インフレ・フロアは逆に、上昇率がストライクを下回ったとき、下回った分に想定元本を掛けた額を受け取る権利です1。買い手は、権利の対価として開始時にプレミアムを払います1。上昇率を測るのは、消費者物価指数(CPI)などの物価指数です。スワップのように固定の率と物価の上昇率を交換する取引はインフレ・スワップで扱います。
ストライクは、物価の上昇率で決めます。上昇率がキャップのストライクを下回る、またはフロアのストライクを上回るときは、受け取りがなく、買い手の負担はプレミアムだけです。
U 社が I 銀行から次のインフレ・キャップを買う架空の例で考えます。U 社は、5 年後に、100 億円に物価指数の変化を掛けた額を払う債務を負っています。
| 決めること | この例 |
|---|---|
| 買い手 | U 社 |
| 売り手 | I 銀行 |
| 想定元本 | 100 億円 |
| 期間 | 5 年(満期に 1 回受け取る) |
| 開始時の物価指数 | 100 |
| ストライク | 5 年間、年 3% の複利(1.03 を 5 回掛けた約 1.1593) |
| プレミアム | 開始時に 1 億円 |
満期に 1 回受け取る形と毎年受け取る形
インフレ・キャップとフロアには、受け取りの決まり方が違う 2 つの形があります。
満期に 1 回受け取る形
満期に 1 回だけ受け取る形(ゼロクーポン型)では、開始時から満期までの物価指数の変化で受け取りが決まります。キャップの売り手は、満期に、想定元本に「指数の変化の比と、ストライクを複利にした値の差(正の分)」を掛けた額を払います。フロアの売り手は、差の向きが逆で、複利にしたストライクが指数の変化の比を上回った分を払います2。複利にしたストライクは、年のストライクを年数だけ複利で積んだ値で、例では 1.03 を 5 回掛けた値です。資料は、評価の式を作りやすいこの形を使っています2。
は想定元本、 は年のストライク、 は期間の年数、 と は開始時と満期の物価指数です。 は、 と 0 のうち大きい方です。
例のキャップでは、 は約 1.1593 です。満期の指数が 120 に上がれば、指数の変化の比は 1.20 で、U 社は 100 億円に 1.20 と約 1.1593 の差を掛けた約 4 億 726 万円を受け取ります3。指数が 110 までしか上がらなければ、比は 1.10 で約 1.1593 に届かず、受け取りはありません。U 社が同じ想定元本 100 億円、期間 5 年で、ストライク 0% のフロアも買えば、指数が 95 に下がると 5 億円を受け取り、105 に上がれば受け取りはありません。
| 5 年後の物価指数 | 受け取り(キャップ、ストライク 年 3%) | 受け取り(フロア、ストライク 0%) |
|---|---|---|
| 120 | 約 4 億 726 万円 | 0 円 |
| 110 | 0 円 | 0 円 |
| 105 | 0 円 | 0 円 |
| 95 | 0 円 | 5 億円 |
毎年受け取る形
毎年受け取る形は、1 年分のオプションを毎年の満期で並べて束ねた形です。1 年分のオプションをキャップレット(フロアではフロアレット)といい、同じストライクと想定元本で、満期が 1 年ずつずれたものを束ねたものがキャップ(フロア)です1。キャップレットは、その年の物価の上昇率がストライクを上回った分に想定元本を掛けた額を払います。年の上昇率は、年の初めと終わりの物価指数の比から 1 を引いて求めます4。図 1 は、ストライク 年 3% のキャップレットの受け取りです。
図の説明
ストライク 年 3% のインフレ・キャップの 1 年分(キャップレット)の、プレミアムを払う前の受け取りです。横軸は 1 年間の物価の上昇率、縦軸は想定元本に対する受け取りの率です。上昇率が 3% 以下なら受け取りは 0 で、3% を超えると上昇率の超えた分だけ増えます。5% なら想定元本の 2% で、想定元本 100 億円なら 2 億円です。フロアの受け取りは、ストライクを軸に左右が逆の形になります。
U 社が、想定元本 100 億円、期間 3 年、ストライク 年 3% の毎年型のキャップを、プレミアム 6,000 万円で買う架空の例で考えます。各年の物価の上昇率が 2%、5%、4% だったとします。1 年目は 3% に届かず受け取りがなく、2 年目は 2%(5% − 3%)の 2 億円、3 年目は 1%(4% − 3%)の 1 億円を受け取ります(図 2)。
図の説明
想定元本 100 億円、期間 3 年、ストライク 年 3% の毎年型のインフレ・キャップを買った U 社の受け払いです。取引の開始時にプレミアム 6,000 万円を払います。各年の物価の上昇率が 2%、5%、4% だったとすると、1 年後は上昇率がストライクに届かず受け取りがありません。2 年後は 2 億円、3 年後は 1 億円を受け取ります。矢印の長さは金額の大きさの目安です。売り手の I 銀行の受け払いは U 社と向きが逆です。
実際の市場では、キャップとフロアは、満期の違うキャップレットとフロアレットの束として値が付きます。個々のキャップレットの値は直接は付かず、満期の限られたキャップの値から補間して求めます5。
参照の遅れと受け取りの指標
インフレ・キャップは、物価指数から求めた上昇率を参照します。特徴は次の表のとおりです。
| 項目 | インフレ・キャップ |
|---|---|
| 参照するもの | 物価指数から求めた物価の上昇率 |
| 受け取りの形 | 毎年の形と、満期に 1 回の形 |
| 受け取りを決める指標 | 満期の 2〜3 か月前に観測した物価の上昇率6 |
| ストライク | 物価の上昇率の水準(フロアには負の値もある)7 |
物価指数の集計には時間がかかるため、満期の日の物価指数は受け取りの計算に使えません8。この遅れ(参照の遅れ)は、インフレ・スワップと同じ事情です。
ストライクの水準と、そこから分かること
ストライクは、年の物価の上昇率の水準で決め、満期ごとに複数の水準を取引します。2009 年 10 月から 2012 年 3 月までの米国のゼロクーポン型の相場データでは、キャップが年 1〜6%、フロアが年 −2〜3% のストライクで、満期が 1、3、5、7、10 年の値が付いていました7。フロアには負のストライクがあり、物価が下がる側の水準にも権利を置けます。データの出所は、この時期の気配を示す BGC Partners です。よく取引されているのは 0% のフロアと 5% のキャップだという非公式の報告もあります7。
分布を求める方法では、上昇率を整数の値だけを取るものとして近似します。ストライクが 1 ポイントずつ違うキャップを、買い、売り(2 本)、買いの形で組むと、上昇率がちょうどその水準になったときだけ想定元本 1 単位を受け取る商品と同じになります。この組み合わせの値を、同じ満期で、ストライクごとに集めれば、市場が見込む物価の上昇率の分布が求められます。方法は、正規分布などを仮定しません9。
価値が何で変わるか
キャップの価値は、物価の上昇率がストライクを上回る見込みが高いほど上がり、フロアの価値は、下回る見込みが高いほど上がります。オプションの価格から求めた物価の上昇率の分布の平均は、先渡しのインフレ・スワップの率に等しくなります10。この率が上がれば、同じストライクのキャップは値上がりし、フロアは値下がりします。
もう 1 つの要因が、物価の上昇率の変動の大きさ、つまりボラティリティです。ボラティリティが大きいほど、キャップでは上昇率がストライクを大きく上回る場合が、フロアでは大きく下回る場合が増えます。受け取りは 0 より下がらないので、どちらも値上がりします。日本の物価連動国債のうち、元本保証のある新型に含まれるフロアのプレミアムは、コロナ禍のようにボラティリティが大きい期間に上昇しました11。
ボラティリティの扱いとモデル
ゼロクーポン型のキャップレットは、先渡しの物価指数のボラティリティを使うブラック・モデルに似た式で評価できます。式のボラティリティは、ストライクと満期ごとの市場の値です12。市場の気配から逆算するので、ストライクによって値が違う形(ボラティリティ・スマイル)になります。この形を 1 つのモデルで再現するため、確率ボラティリティや、ストライクによる違いを表すレバレッジ関数を加えたモデルが提案されています13。評価の手法は 1 つに決まっていません。
毎年型のキャップレットは、前年の指数に対する比の変動を扱うため、2 つの先渡しの物価指数のボラティリティとその相関、名目金利のボラティリティなどに価格が依存します14。先渡しの物価指数が対数正規に動くと仮定した市場モデルでは、近似を使った式が導かれています14。
深掘りゼロクーポン型のキャップとフロアの式
何に使われるか
物価に連動した債務や収入を持つ者が、その片側だけを固めたいときに使います。U 社の債務の例で、キャップを買った場合の結果を見ます。債務は、100 億円に 5 年間の物価指数の変化の比を掛けた額です。指数が 120 に上がれば、債務は 120 億円ですが、キャップで約 4.07 億円を受け取り、プレミアム 1 億円を足した実質の負担は約 116.93 億円で、キャップがなければ 120 億円でした。指数が 110 までしか上がらなければ、債務は 110 億円で、キャップの受け取りはなく、プレミアムを足した負担は 111 億円です。キャップがなければ負担は 110 億円で、プレミアムの分だけ多く払います。
| 5 年後の物価指数 | 債務の額 | キャップの受け取り | プレミアム | 実質の負担 |
|---|---|---|---|---|
| 120 | 120 億円 | 約 4.07 億円 | 1 億円 | 約 116.93 億円 |
| 110 | 110 億円 | 0 円 | 1 億円 | 111 億円 |
U 社が、物価指数に連動する額で 100 億円を 5 年後に受け取る契約を持つ場合は、フロアを買って、指数が下がったときの受け取りの減少を抑えられます。ストライク 0%、プレミアム 5,000 万円のフロアなら、指数が 95 に下がると、契約の受け取りは 95 億円ですが、フロアから 5 億円を受け取り、プレミアムを引いて 99.5 億円になります。指数が 105 に上がれば、契約の受け取りは 105 億円で、フロアの受け取りはなく、プレミアムを引いて 104.5 億円です。フロアがなければ受け取りは 105 億円で、プレミアムの分だけ少なくなります。
年金は、使い手の例の 1 つです。2012 年のイングランド銀行の記事によると、英国には、負債が小売物価の上昇に連動して増え、最大 5% までで、減らない(限度付きの物価連動)年金があり、0% の RPI のフロアを買い、5% のキャップを売る動機があります15。英国の市場の 20〜30 年の長い満期は、こうした年金の取引の影響が大きくなっていました16。米国では、2012 年ごろ、投資信託や保険会社が、キャップとフロアの買い手と売り手になっていました17。仕組商品のヘッジに使う者もいました18。
債券や契約に組み込まれたフロアも、使われ方の 1 つです。2006 年 1 月の講義資料は、銀行が発行する物価連動債に、ストライク 0% のフロアが付いていたことを伝えています。物価が下がってもクーポンが正の値になるよう、上昇率の下限を 0 に置くためで、ストライクの低いフロアは、もっともよく取引される物価の上昇率のオプションだと書いています19。米国の物価連動国債(TIPS)は、物価が下がっても償還の元本が額面を下回らず、この性質がオプションのような形をつくると、2012 年の資料は説明しています20。日本の物価連動国債の元本保証(フロア)は物価連動国債と BEIで扱います。
リスク
買い手の損失はプレミアムに限られます。売り手は、買い手の受け取りの額を払う義務を負います。キャップでは、物価が上がるほど、その額が増えます。
取引は取引所を通さない店頭デリバティブで、流動性は小さくなります。2012 年のイングランド銀行の資料は、英国、米国、ユーロ圏のインフレ・オプションの市場は比較的若く小さく、取引は散発的で、気配が市場の変化にゆっくり反応する可能性があるとしています16。満期ごとの値が少ないため補間が必要になり、評価の手法も 1 つに決まっていません。
物価指数の参照の遅れも、リスクの 1 つです。満期の数か月前の指数で受け取りが決まるため、満期の物価の動きは受け取りに反映されません。
買い手は、売り手が払えなくなるリスク(カウンターパーティ・クレジットリスク)も負います。2012 年の資料が使った米国のゼロクーポン型の取引では、買い手が担保を受け取って、このリスクに備えていました21。
注
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Tom Smith "Option-implied probability distributions for future inflation"(Bank of England, Quarterly Bulletin 2012 Q3)の 226 ページの囲み「Caps, caplets, floorlets and floors」。 ↩ ↩2 ↩3
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Kitsul and Wright "The Economics of Options-Implied Inflation Probability Density Functions"(NBER Working Paper 18195, 2012 年 6 月)の 3 ページ、「2 Inflation Caps and Floors」。 ↩ ↩2
-
1.03 を 5 回掛けると約 1.159274 で、受け取りは 100 億円に 1.20 − 1.159274 を掛けた 4 億 725 万 9,257 円です。本文と表では 1 万円未満を四捨五入しています。 ↩
-
Fabio Mercurio "Pricing inflation-indexed options with stochastic volatility"(Winter School 講義資料, 2006 年 1 月)のスライド 18、24。資料の式は想定元本に年の期間の長さを掛けますが、本文は 1 年として省いています。 ↩
-
Smith(2012 年 Q3)の 225 ページ。 ↩
-
Smith(2012 年 Q3)の 225 ページ。2012 年の説明で、英国は 2 か月前、米国とユーロ圏は 3 か月前です。Kitsul and Wright(2012 年 6 月)の 10 ページの脚注 6 は、米国で約 2 か月前と書きます。 ↩
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Kitsul and Wright(2012 年 6 月)の 4 ページと、その脚注 2。BGC Partners から提供を受けた、2009 年 10 月 6 日から 2012 年 3 月 27 日までの日次の気配です。脚注 2 の記述は「anecdotal reports」(非公式の報告)です。 ↩ ↩2 ↩3
-
Kitsul and Wright(2012 年 6 月)の 10 ページの脚注 6。資料は「delays in compiling CPI data」を理由に挙げています。 ↩
-
Kitsul and Wright(2012 年 6 月)の 5 ページ。資料は、上昇率が整数の値だけを取るという近似を置いています。 ↩
-
Smith(2012 年 Q3)の 227 ページ。 ↩
-
服部孝洋「物価連動国債入札-発展編(フロア・オプション、流動性等)-」(財務省『ファイナンス』2024 年 3 月号)の「2.3 オプションという観点でみた元本保証」。 ↩
-
Orcan Ögetbil and Bernhard Hientzsch "Inflation Models with Correlation and Skew"(arXiv:2405.05101, 2024 年 5 月)の 3.1 節(5〜6 ページ)。資料の式は基準の指数と想定元本を別の記号で書いており、本文は比 で表しています。 ↩ ↩2
-
Ögetbil and Hientzsch(2024 年 5 月)の要旨と 1 節(1〜2 ページ)。資料は、これらのモデルを提案する側です。 ↩
-
Smith(2012 年 Q3)の 225 ページの脚注 5。 ↩
-
Kitsul and Wright(2012 年 6 月)の 4 ページ。米国証券取引委員会(SEC)への提出書類から、投資信託と保険会社が参加していることが分かると書いています。 ↩
-
Smith(2012 年 Q3)の 225 ページの「Table A」。 ↩
-
Mercurio(2006 年 1 月)のスライド 4。 ↩
-
Kitsul and Wright(2012 年 6 月)の 7 ページ、「2.1 The Embedded Deflation Option in TIPS」。 ↩
-
Kitsul and Wright(2012 年 6 月)の 3 ページ。資料が扱う米国のドル建ての相場データの説明です。 ↩