先物やオプションの取引、決済・担保の担当者が、取引所の契約の標準化、証拠金、清算の仕組みの由来を説明する場面で役立つ歴史です。
何が起きたか
シカゴ商品取引所(CBOT)は、1848 年にシカゴで設立された、穀物の先渡取引を売買する組織で、後に先物を扱う取引所になりました。20 世紀の後半には、通貨や金利、株価指数の先物取引とオプションも扱うようになりました。1990 年代には、取引所の立会場に集まって声と手振りで売買する方法(公開喧騒)に加えて電子取引が広がり、取引所の提携や再編が進みました。
取引所の組織ができたことを「設立」、最初の取引が行われたことを「取引開始」と呼び分けます。
先物の仕組みそのものは先渡しと先物で扱います。
先物の取引所はシカゴだけにあったわけではありません。日本取引所グループは、江戸時代の大坂の堂島米市場を、日本の取引所の起源とされ、世界の組織的な先物取引所の先駆けとして広く知られていると説明しています1。
背景:穀物の価格リスクとシカゴ
シカゴで先物の取引所が育ったのは、穀物の運び方が理由の 1 つです。1848 年に運河が完成し、内陸でとれたとうもろこしを安く水路で運べるようになりました。ただ、晩秋から初冬に収穫したものは、水路が凍って運べないため、春の雪解けまで川沿いの穀物倉庫に置いたままになりました。倉庫の運営者は、冬のあいだ価格の変動のリスクを負います。そこで運営者は、晩秋のうちに 5 月渡しの価格を決めて売るようになりました2。このように、将来の受け渡しの価格を今決める取引が先渡取引です。
取引所ができた後は、取引の作法や、受け渡す穀物の等級(品位)についての規則が整えられていきました2。
経緯
図の説明
取引所の発展の主な節目を古い順に並べた年表です。塗りの丸は、取引所が設立または開業した節目(CBOT と CBOE)です。会員どうしの受け払いを差し引く清算所(清算会社とは別のもの)を設けた年は資料により異なるため、この図には載せず、下の表に両方の年を書きます。間隔は実際の長さに合わせていません。
| 時期 | 出来事 |
|---|---|
| 1848 年 | CBOT の設立2 |
| 1865 年または 1883 年 | CBOT が清算所(clearinghouse)を設ける(資料により年が異なる)32 |
| 1925 年 | CBOT が清算会社(Board of Trade Clearing Corporation)を設ける3 |
| 1972 年 | CME の国際通貨市場(IMM)が通貨先物の取引を開始4 |
| 1973 年 4 月 26 日 | シカゴ・オプション取引所(CBOE)の開業5 |
| 1975 年 10 月 | CBOT が GNMA 先物の取引を開始4 |
| 1976 年 1 月 | IMM が 90 日の米国短期国債の先物の取引を開始4 |
| 1977 年 8 月 | CBOT が米国長期国債の先物の取引を開始4 |
| 1982 年 4 月 | IMM が S&P 500 株価指数の先物の取引を開始4 |
| 1982 年 10 月 | CBOT が金融先物のオプションの取引を開始4 |
| 1998 年 9 月 | ドイツの DTB とスイスの SOFFEX が、共通の取引基盤 Eurex を設ける6 |
売買の約束を守らせる仕組みの発展
先物を取引所で売買するには、売り手と買い手が約束を守ることを確かなものにする仕組みが要ります。CBOT で、この仕組みは少しずつ整いました3。
初めのうち、約束を破った会員への罰は、取引場から締め出すことでした。1873 年までに CBOT は、支払い能力に疑いのある会員が帳簿の検査を拒めば除名できるとする決議を採りました。同じころ、当初証拠金と変動証拠金の差し入れを求める規則と、差し入れの期限も設けました。
清算所を設けた年は、資料により 1865 年とするものと 1883 年とするものがあります32。この清算所は、会員どうしの受け払いを差し引きして決済の手間を減らすものでした。会員が支払えなくなっても、その取引の決済を肩代わりする約束はありませんでした。
取引所のすべての取引の相手方になる清算機関に当たるのは、1925 年の清算会社です。会員は清算会社の株式を買い、証拠金を預け、会員が支払えなくなったときは清算会社が決済を引き受けました。損失が証拠金を超えれば、清算会社の資本(ほかの会員が出した資本を含む)から埋める仕組みでした3。
図の説明
1925 年に CBOT が設けた清算会社の形を示した図です。矢印は、買い手会員と売り手会員がそれぞれ清算会社に証拠金を預託することを示します。清算会社は、取引の相手方として双方に向き合います(清算会社の箱の注記)。この図は当時の仕組みの形で、今の清算機関の細かい仕組みは示しません。
清算の仕組みが米国より先に整った取引所もあります。米国の連邦準備制度理事会(FRB)の理事は 2006 年の講演で、欧州には 19 世紀の後半に、米国のどの取引所よりも早く、ある種の清算機関を持つコーヒーや穀物の取引所があったと述べています7。清算機関の今の仕組みは清算機関(JSCC、LCH、CME など)で扱います。
農産物から金融先物へ
シカゴの取引所の売買量は、金融の先物が加わって大きく増えました。CBOT と、シカゴ・マーカンタイル取引所(CME)の出来高の合計は、1976 年に約 2,500 万契約、1981 年に 7,300 万契約を超えています。このうち金融先物の割合は、約 2% から約 39% に上がりました8。
1972 年、CME の中に新しくできた国際通貨市場(IMM)が外国通貨の先物の取引を始めました。穀物のような現物の商品ではなく、通貨を対象にした先物の始まりです4。
その後、先物の対象は金利にも広がりました。1975 年 10 月の GNMA 先物、1976 年 1 月の 90 日の米国短期国債の先物、1977 年 8 月の米国長期国債の先物が代表です4。金利先物は、シカゴの取引所の売買量を大きく増やしました。1981 年には、CBOT の米国長期国債の先物と CME の 90 日の短期国債の先物の 1 日あたり売買額(額面)が、277 億ドルに上りました。これは、報告対象の 36 業者の米国債の現物取引の 1 日平均を 30 億ドル上回る額でした8。
ユーロドルの先物は、満期に現物を受け渡さず、差額だけを決済する現金決済を取り入れた契約でした。この現金決済が、株価指数のように受け渡せないものを対象にした先物を可能にしました。S&P 500 株価指数の株価指数先物は、1982 年 4 月に IMM で取引が始まりました。6 か月ほどで、それまで IMM で最も売買の多かった 90 日の短期国債の先物に並ぶ日次の売買量になりました4。
取引所でのオプションの上場
1973 年 4 月 26 日、シカゴ・オプション取引所(CBOE)が開業しました。上場デリバティブとしてオプションを上場して売買する、世界で最初の取引所だと Cboe は述べています5。
それまでの株式のオプションは、当事者どうしが条件を交渉する店頭の取引でした。相手を探して条件を決めるのに手間がかかります。取引所は、標準化された契約(条件をそろえたもの)を売買する場にしました5。CBOE が開業したときに上場したのは、16 銘柄の株式のコール・オプションで、プット・オプションはありませんでした。1981 年の末には、コールは 120 銘柄になっています9。
CBOE が 1981 年に占めた割合は、米国の取引所で売買されたオプションの契約数の約 53% でした。1975 年にアメリカン証券取引所とフィラデルフィア証券取引所、1976 年にパシフィック証券取引所も株式のオプションの取引を始め、競争は強くなりました。それでも CBOE の割合は 1981 年に 50% を超えていました9。
電子取引と国をまたぐ広がり
1990 年代に入ると、取引所の売買は立会場から電子取引へ移り始めました。1998 年 1 月時点の整理では、次のとおりです10。
- CBOT、CME、ロンドンの LIFFE という世界で最大級の先物取引所は、立会場で売買する方法(公開喧騒)をまだ使っていました。
- 電子システムで先物とオプションを売買する取引所は、世界で 1990 年の 8 か所から 1997 年に約 40 か所に増えました。その多くは米国の外にありました。
- 先物取引所の電子システムの出来高が世界の出来高に占める割合は、1989 年の 7% から 1996 年に 18% になりました。
- ドイツ国債の先物(ブンド先物)を電子取引のドイツの取引所(DTB)と立会場のロンドンの LIFFE で売買した出来高のうち、DTB の割合は 1991 年の 19% から 1997 年に約 42% になりました。
立会場の取引を続ける取引所も、立会場の閉まった時間には電子システムを使っていました(CME の Globex、CBOT の Project A、LIFFE の自動立会システム)10。
1999 年 5 月時点では、取引所の仕組みの変化として、国内での株式の取引所と派生商品の取引所の合併、国をまたぐ取引所どうしの提携、取引所の所有と会員資格の分離(株式会社化)が挙げられていました。例には、1998 年 9 月の Eurex の共通の取引基盤、CME とフランスの取引所の Globex の提携、1999 年に LIFFE が会員でない株主を認める決議などがあります11。変化を促した要因の 1 つは技術の進歩で、電子取引は立会場に比べて、直接に参加できる会社の数の限りをゆるめ、取引所の近くにいる必要を減らしたとされていました11。
注
-
日本取引所グループ「堂島米市場」のトップの説明(「世界における先物取引所の先駆け」の見出しの下の段落)。 ↩
-
Kasriel and Merris(1983)の「Chicago's past in futures」の節(PDF の 1〜2 ページ)。清算所を設けた年は、この節が 1865 年とし、Kroszner(2006)は 1883 年とする。 ↩ ↩2 ↩3 ↩4 ↩5
-
Randall S. Kroszner "Central Counterparty Clearing: History, Innovation, and Regulation"(FRB、2006 年 4 月 3 日の講演)の「Historical Development of Futures Clearinghouses」の節の 2〜4 段落目。 ↩ ↩2 ↩3 ↩4 ↩5
-
Kasriel and Merris(1983)の「Chicago's past in futures」の節の後半(PDF の 2〜3 ページ)。 ↩ ↩2 ↩3 ↩4 ↩5 ↩6 ↩7 ↩8 ↩9
-
Cboe Global Markets "The Creation of Listed Options at Cboe"(2024 年 3 月 1 日)の「From Theory to Reality」と「The Vision for Listed Options」の段落。 ↩ ↩2 ↩3
-
Claire Williamson "Structural changes in exchange-traded markets"(Bank of England, Quarterly Bulletin, 1999 年 5 月)の "Structural changes" の節(PDF の 1〜2 ページ)。 ↩
-
Kroszner(2006)の同じ節の最初の段落。 ↩
-
Paul L. Kasriel and Randall C. Merris "Chicago: city of the big straddles"(シカゴ連銀、1983 年 1・2 月号)の「Futures trading today」の節(PDF の 1 ページ)。資料の CBT は、本文の CBOT と同じ取引所を指す。 ↩ ↩2
-
Kasriel and Merris(1983)の「Chicago's past in futures」の節の最後の段落(PDF の 3 ページ)と、オプションの競争を述べた段落(PDF の 4 ページ)。1981 年の割合は、PDF の 1 ページの冒頭の段落も参照。 ↩ ↩2
-
Asani Sarkar and Michelle Tozzi "Electronic Trading on Futures Exchanges"(ニューヨーク連邦準備銀行、1998 年 1 月)の "Open Outcry Trading" の節(PDF の 1〜2 ページ)。 ↩ ↩2
-
Williamson(1999)の Introduction と "Structural changes" の節(PDF の 1〜2 ページ)、"Factors driving these structural changes" の節(PDF の 2〜3 ページ)。LIFFE の決議は 1999 年 2 月で、実施は 4 月。 ↩ ↩2