オプションや株価の確率モデルを実装するクオンツやリスク管理の担当者は、モデルの式の意味を確かめるときや、評価の偏微分方程式の出どころを読むときに、伊藤の補題を使います。

伊藤の補題は何を表すか

ブラウン運動は WtW_t と書きます。ブラウン運動の導入はランダムウォークとブラウン運動で扱います。

伊藤の補題は、ふつうの微分の連鎖律が使えない場面で、関数の変化を求める公式です。ブラウン運動の道筋は連続ですが、どの点でも微分できないため、dWt/dtdW_t/dt という量がありません。連鎖律の df=f′(Wt) (dWt/dt) dtdf = f'(W_t)\,(dW_t/dt)\,dt は意味を持たなくなります1。

そこで、df=f′(Wt) dWtdf = f'(W_t)\,dW_t と書き直したくなりますが、これでは足りません。関数を xx のまわりでテイラー展開すると、f(x+Δx)−f(x)=f′(x)Δx+12f′′(x)(Δx)2+⋯f(x + \Delta x) - f(x) = f'(x)\Delta x + \tfrac{1}{2}f''(x)(\Delta x)^2 + \cdots です。xx がブラウン運動のとき、ΔWt\Delta W_t の 2 乗の期待値は Δt\Delta t で、時間の刻みと同じ大きさです。そのため、2 次の項は無視できず、1 つだけ残ります1。次の式が、1 つの変数の場合の最も簡単な形の伊藤の補題です。

df(Wt)=f′(Wt) dWt+12f′′(Wt) dtdf(W_t) = f'(W_t)\,dW_t + \tfrac{1}{2}f''(W_t)\,dt

ふつうの連鎖律に、12f′′ dt\tfrac{1}{2}f''\,dt という確定的な項が 1 つ増えています。f′′>0f'' > 0 なら、この項の分だけ、関数の期待値の動きが、ふつうの微分の規則で求めた変化より大きくなります。

確率微分方程式と伊藤積分

確率微分方程式は、確率過程 XtX_t の微小な変化を、時間に比例する項とブラウン運動の増分に比例する項で書く式です。次の形で、μt\mu_t をドリフトといい、σt\sigma_t は dWtdW_t の項の係数です2。幾何ブラウン運動では、σt\sigma_t が、ボラティリティの σ\sigma に価格を掛けた形(σSt\sigma S_t)になります。

dXt=μt dt+σt dWtdX_t = \mu_t\,dt + \sigma_t\,dW_t

μt\mu_t と σt\sigma_t は定数でも、時点 tt や価格 XtX_t の関数でもかまいません。定数なら、Xt=μt+σWtX_t = \mu t + \sigma W_t という、ドリフト付きのブラウン運動です。幾何ブラウン運動は、μt=μSt\mu_t = \mu S_t、σt=σSt\sigma_t = \sigma S_t とした場合にあたり、次の式で書きます。

dSt=μSt dt+σSt dWtdS_t = \mu S_t\,dt + \sigma S_t\,dW_t

この式は、短い時間の動きを書いた略記で、積分の形に直して初めて意味が決まります。積分の形は次のとおりです。

XT=X0+∫0Tμs ds+∫0Tσs dWsX_T = X_0 + \int_0^T \mu_s\,ds + \int_0^T \sigma_s\,dW_s

最後の項が伊藤積分です。ここでは、微分 dF=f dW+g dtdF = f\,dW + g\,dt を満たす FF を、f dWf\,dW と g dtg\,dt の積分の和と定め、積分を微分の逆と置きます2。伊藤積分では、被積分関数(上の式の σs\sigma_s)が適合している(各時点の値が、その時点までのブラウン運動の動きだけで決まる)ことが求められ、株の売買の量を決めるのに、将来の価格を見られないことに対応します3。

適合した被積分関数の伊藤積分には、使いやすい性質が 2 つあります。1 つは、被積分関数が 2 乗可積分などの条件を満たせば、積分がマルチンゲール(将来の期待値が今の値に等しい過程)になることです3。もう 1 つは、伊藤の等長性で、適合した被積分関数 Δs\Delta_s について、積分の 2 乗の期待値(EE は期待値を表します)が、被積分関数の 2 乗の積分の期待値に等しいことです3。

E[(∫0tΔs dWs)2]=E[∫0tΔs2 ds]E\left[\left(\int_0^t \Delta_s\,dW_s\right)^2\right] = E\left[\int_0^t \Delta_s^2\,ds\right]

被積分関数が定数 Δs=0.2\Delta_s = 0.2、t=1t = 1 年の架空の例で考えます。右辺は 0.22×1=0.040.2^2 \times 1 = 0.04 です。平均が 0 のため、積分の分散は 0.04、標準偏差は 0.2(20%)です。被積分関数が時間だけの決まった関数なら、積分は正規分布に従います3。

二次変動と増分の 2 乗の和

伊藤の補題の追加の項は、ブラウン運動の増分の 2 乗が、確率の入らない時間 dtdt に置き換わることから出ます。この性質を、二次変動で表します。区間 [0,T][0, T] を細かい区間に分け、その分け方の最大の幅を 0 に近づけると、ブラウン運動の増分の 2 乗の和は、確率 1 で TT に収束します4。

lim⁡∣Π∣→0∑i(Wti+1−Wti)2=T\lim_{|\Pi| \to 0} \sum_i \left(W_{t_{i+1}} - W_{t_i}\right)^2 = T

Π\Pi は区間の分け方、∣Π∣|\Pi| はその最大の幅です。滑らかな関数 gg では、同じ和が 0 に近づきます。1 つ 1 つの増分が刻みに比例して小さくなり、2 乗にすると刻みの 2 乗に比例する小さな値になるためです4。次の表で、区間 [0,1][0, 1] を等分したときの和を比べます。

分割数 n 刻み Δt 増分の大きさ √Δt 増分の 2 乗の和(ブラウン運動の近似) 増分の 2 乗の和(g(t)=tg(t) = t)
4 0.25 0.5 1 0.25
100 0.01 0.1 1 0.01
10,000 0.0001 0.01 1 0.0001

右端の列は、g(t)=tg(t) = t の増分が Δt\Delta t のため、和が n×(Δt)2=Δtn \times (\Delta t)^2 = \Delta t になる計算です。ブラウン運動は、刻みを細かくしても 2 乗の和が 1 のままで、滑らかな関数は 0 に近づきます。

表のブラウン運動の列は、増分が ±Δt\pm\sqrt{\Delta t} のランダムウォークで近似した場合で、各増分の 2 乗が Δt\Delta t になるため、和は経路によらず 1 です。ブラウン運動そのものでは、各増分の 2 乗が平均 Δt\Delta t のばらつく値になり、その和が大数の法則で TT に近づきます。

この関係を、微小な量の掛け算の規則としてまとめます。(dW)2(dW)^2 は dtdt に置き換え、dt dWdt\,dW と (dt)2(dt)^2 の項は無視できます1。

掛け算 置き換え
dWt×dWtdW_t \times dW_t dtdt
dt×dWtdt \times dW_t 0
dt×dtdt \times dt 0

伊藤の補題の式

関数 f(t,x)f(t, x) が滑らかで、XtX_t が dXt=μt dt+σt dWtdX_t = \mu_t\,dt + \sigma_t\,dW_t に従うとき、f(t,Xt)f(t, X_t) の微小な変化は次の式で表せます1。

df(t,Xt)=(∂f∂t+μt∂f∂x+12σt2∂2f∂x2)dt+σt∂f∂x dWtdf(t, X_t) = \left( \frac{\partial f}{\partial t} + \mu_t \frac{\partial f}{\partial x} + \frac{1}{2}\sigma_t^2 \frac{\partial^2 f}{\partial x^2} \right) dt + \sigma_t \frac{\partial f}{\partial x}\,dW_t

∂f/∂t\partial f/\partial t は時間による変化、∂f/∂x\partial f/\partial x は XX による 1 階の変化で、ふつうの連鎖律にも出る項です。12σt2 ∂2f/∂x2\tfrac{1}{2}\sigma_t^2\,\partial^2 f/\partial x^2 が、伊藤の補題で加わった項です。ff が 1 次式(∂2f/∂x2=0\partial^2 f/\partial x^2 = 0)なら、この項は消え、ふつうの連鎖律と同じ形になります。ff の曲がりが大きいほど、この項が大きくなります。

深掘り伊藤の補題の導出の概略

f(t,Xt)f(t, X_t) をテイラー展開し、変化の 2 次までを書きます。dtdt を含む 2 次の項(dt dXtdt\,dX_t、(dt)2(dt)^2)は、上の掛け算の規則から 0 になるので省きます。

df=∂f∂t dt+∂f∂x dXt+12∂2f∂x2 (dXt)2df = \frac{\partial f}{\partial t}\,dt + \frac{\partial f}{\partial x}\,dX_t + \frac{1}{2}\frac{\partial^2 f}{\partial x^2}\,(dX_t)^2

dXt=μt dt+σt dWtdX_t = \mu_t\,dt + \sigma_t\,dW_t を 2 乗すると、μt2(dt)2+2μtσt dt dWt+σt2(dWt)2\mu_t^2 (dt)^2 + 2\mu_t\sigma_t\,dt\,dW_t + \sigma_t^2 (dW_t)^2 です。上の掛け算の規則で、最初の 2 項は 0、最後の項は σt2 dt\sigma_t^2\,dt になります。したがって (dXt)2=σt2 dt(dX_t)^2 = \sigma_t^2\,dt で、これを上の式に入れて dtdt の項と dWtdW_t の項に整理すると、本文の式になります。証明も、この順の計算です1。3 次以上の項は、時間の刻みに対してさらに小さく、無視されます。

計算例:W の 2 乗と株価の対数

最初の例は、f(x)=x2/2f(x) = x^2/2 です。f′=xf' = x、f′′=1f'' = 1 のため、伊藤の補題は d(Wt2/2)=Wt dWt+12dtd(W_t^2/2) = W_t\,dW_t + \tfrac{1}{2}dt になります。両辺を積分すると、次の関係が得られます1。

∫0TWt dWt=12WT2−T2\int_0^T W_t\,dW_t = \frac{1}{2}W_T^2 - \frac{T}{2}

ふつうの微積分なら ∫x dx=x2/2\int x\,dx = x^2/2 で、−T/2-T/2 の項は出ません。T=1T = 1、WT=1.5W_T = 1.5 の経路の架空の例で考えます。ふつうの微積分の値は 1.52/2=1.1251.5^2/2 = 1.125、伊藤積分は 1.125−0.5=0.6251.125 - 0.5 = 0.625 です。E[WT2]=TE[W_T^2] = T のため、伊藤積分の期待値は T/2−T/2=0T/2 - T/2 = 0 になり、先に述べたマルチンゲールの性質と合います3。

2 つ目の例は、幾何ブラウン運動の解です。f(S)=ln⁡Sf(S) = \ln S とすると、∂f/∂S=1/S\partial f/\partial S = 1/S、∂2f/∂S2=−1/S2\partial^2 f/\partial S^2 = -1/S^2 です。μt=μSt\mu_t = \mu S_t、σt=σSt\sigma_t = \sigma S_t を伊藤の補題に入れます5。

dln⁡St=(μSt⋅1St−12σ2St2⋅1St2)dt+σSt⋅1St dWt=(μ−σ22)dt+σ dWtd\ln S_t = \left( \mu S_t \cdot \frac{1}{S_t} - \frac{1}{2}\sigma^2 S_t^2 \cdot \frac{1}{S_t^2} \right) dt + \sigma S_t \cdot \frac{1}{S_t}\,dW_t = \left( \mu - \frac{\sigma^2}{2} \right) dt + \sigma\,dW_t

右辺の係数は定数のため、積分して指数をとると、StS_t の解が得られます。

ST=S0exp⁡((μ−σ22)T+σWT)S_T = S_0 \exp\left( \left( \mu - \frac{\sigma^2}{2} \right) T + \sigma W_T \right)

対数の μ−σ2/2\mu - \sigma^2/2 が、μ\mu より σ2/2\sigma^2/2 だけ小さいのは、伊藤の補題の追加の項が、ln⁡S\ln S の曲がり(2 階微分が負)から出るためです。S0=100S_0 = 100、μ=5%\mu = 5\%、σ=20%\sigma = 20\%、T=1T = 1 年の架空の例で考えます。

項目 式 値
対数のドリフト μ−σ2/2\mu - \sigma^2/2 0.05−0.04÷2=0.030.05 - 0.04 \div 2 = 0.03
対数収益率の標準偏差 σT\sigma\sqrt{T} 0.20
対数収益率が平均のときの 1 年後の価格 100×e0.03100 \times e^{0.03} 103.05
1 年後の価格の期待値 100×e0.05100 \times e^{0.05} 105.13

表の 2 つの価格の違いは、図 1 の分布で見られます。1 年後の価格は対数正規分布に従います。対数収益率が平均のときの価格 103.05 は中央値(半分の確率がそれより下になる価格)で、期待値の 105.13 はそれより右にあります。

期待値が eμTe^{\mu T} に比例することは、対数正規分布の期待値から確かめられます。ここでは、伊藤の補題から、対数のドリフトが μ−σ2/2\mu - \sigma^2/2 になる理由を示しました。

確率密度50100150200期待値 105.131 年後の株価
図 11 年後の株価の分布(対数正規分布)
図の説明

図は、S0=100S_0 = 100、μ=5%\mu = 5\%、σ=20%\sigma = 20\%、T=1T = 1 年の幾何ブラウン運動の、1 年後の株価の分布です。株価の対数が、平均 ln⁡100+0.03\ln 100 + 0.03、標準偏差 0.20 の正規分布に従う場合にあたります。縦軸は確率密度で、面積が確率を表します。

分布は右の裾が長く、縦線は期待値 105.13 の位置です。中央値 103.05 は縦線より約 2.08 左にあり、山の頂点(約 99)はそのさらに左にあります。

この例の設定では、対数収益率の平均は 0.03 で、ドリフトだけの値 0.05 との差は σ2T/2=0.02\sigma^2 T/2 = 0.02 です。区間を細かくすると、株価の対数の増分の 2 乗の和は σ2T=0.04\sigma^2 T = 0.04 に近づきます。次のシミュレーターで、この 2 つを確かめられます。

シミュレーター株価の期待値、対数収益率の平均、二次変動を動かして確かめる
入力
%
%
年
回
0.000.020.040.060.080.1028321285122,0488,192増分の 2 乗の和区間の数 n0.0390
  • ln S の増分の 2 乗の和(二次変動)
  • σ²T
株価の期待値(解析解 S₀e^(μT))
105.13
シミュレーションの株価の平均
105.20
標準誤差 0.13、経路 1,000 本(対称変量法)
対数収益率の平均(伊藤の補題 (μ − σ²/2)T)
0.0300
ドリフトだけの値(μT)
0.0500
対数収益率の平均(シミュレーション)
0.0298
標準誤差 0.00038
追加の項の分(σ²T/2)
0.0200
対数収益率が平均のときの株価
103.05
二次変動(区間 8,192 個)
0.0390
二次変動の収束先(σ²T)
0.0400
ドリフト部分の増分の 2 乗の和(区間 8,192 個)
1.10e-7
区間 2 個のとき 4.50e-4。区間の数に反比例して小さくなります。
∫W dW の左端和(区間 8,192 個)
0.1579
伊藤の補題の値 W_T²/2 − T/2
0.1453
ふつうの微積分の値 W_T²/2
0.6453

単純化している点

  • 株価は幾何ブラウン運動に従い、価格の式 S ← S + μSΔt + σSΔW を決まった刻みで進めます(オイラー法)。刻みを細かくすると、対数収益率の平均が μT でなく (μ − σ²/2)T に近づきます。
  • 経路は 1,000 本で、乱数 Z と −Z の対で数える対称変量法を使い、乱数はシードを固定した疑似乱数です(同じ入力なら毎回同じ結果)。標準誤差は 500 組の値から求めます。
  • 二次変動のグラフは、1 本のブラウン運動の経路(8,192 個の増分)を 2 のべき乗個の区間に束ねたものです。経路は固定で、σ、μ、T を動かしても同じ乱数の列を使います。結果欄の ∫W dW の 3 行は、σ と μ によらず、T と、この固定の経路だけで決まります。
  • 結果欄のドリフト部分は、ln S のドリフト (μ − σ²/2)T を区間に等分した増分の 2 乗の和で、ふつうの滑らかな関数と同じく 1/n に比例して 0 に近づきます。
  • σ の上限 50% と、1 年 12 回以上の刻みは、オイラー法の 1 回の変化率が負にならない範囲です。

このシミュレーターは学習のために単純化した計算で、実際の取引の評価やリスク管理には使えません。(免責事項)

シミュレーターの説明

σ、μ、期間、時間の刻みを動かして、伊藤の補題の追加の項がどこに出るかを見ます。初期値は上の計算例と同じです。 株価の期待値は解析解とシミュレーションの平均を、対数収益率の平均はドリフトだけの値との違いを、増分の 2 乗の和は区間を細かくしたときの動きを見ます。結果欄の最後の 3 行は、上の ∫W dW の例で、左端和と、ふつうの微積分の値との違いを見ます。

ブラック・ショールズ方程式への入口

オプションの価格 C(S,t)C(S, t) は、原資産の価格 StS_t と時間 tt の関数のため、伊藤の補題で動きが書けます。StS_t が幾何ブラウン運動に従い、金利 rr が一定のとき、次の式になります6。

dC=(μS∂C∂S+∂C∂t+12σ2S2∂2C∂S2)dt+σS∂C∂S dWtdC = \left( \mu S \frac{\partial C}{\partial S} + \frac{\partial C}{\partial t} + \frac{1}{2}\sigma^2 S^2 \frac{\partial^2 C}{\partial S^2} \right) dt + \sigma S \frac{\partial C}{\partial S}\,dW_t

次に、現金を xtx_t 単位(現金の価値は erte^{rt} で増える)、原資産を yty_t 単位持つ、途中で資金を出し入れしない組み合わせを考えます。この組み合わせが、オプションの動きを複製するように xtx_t、yty_t を選びます。最初の価値を P0=C0P_0 = C_0 とし、Pt=CtP_t = C_t となるよう、2 つの式の dWtdW_t と dtdt の項をそれぞれ等しく置きます。組み合わせの価値 PtP_t の動きは、次のとおりです6。

dPt=(rxtert+ytμSt)dt+ytσSt dWtdP_t = \left( r x_t e^{rt} + y_t \mu S_t \right) dt + y_t \sigma S_t\,dW_t

dWtdW_t の項を等しく置くと yt=∂C/∂Sy_t = \partial C/\partial S が、dtdt の項を等しく置くと rxtert=∂C/∂t+12σ2S2 ∂2C/∂S2r x_t e^{rt} = \partial C/\partial t + \tfrac{1}{2}\sigma^2 S^2\,\partial^2 C/\partial S^2 が得られます。

次に代入して整理します。Pt=CtP_t = C_t なので、組み合わせの価値 xtert+ytStx_t e^{rt} + y_t S_t は CC に等しく、xtert=C−S ∂C/∂Sx_t e^{rt} = C - S\,\partial C/\partial S です。これを dtdt の項の式に入れると、r(C−S ∂C/∂S)=∂C/∂t+12σ2S2 ∂2C/∂S2r\left(C - S\,\partial C/\partial S\right) = \partial C/\partial t + \tfrac{1}{2}\sigma^2 S^2\,\partial^2 C/\partial S^2 となり、整理すると次のブラック・ショールズの偏微分方程式になります7。

∂C∂t+rS∂C∂S+12σ2S2∂2C∂S2−rC=0\frac{\partial C}{\partial t} + rS\frac{\partial C}{\partial S} + \frac{1}{2}\sigma^2 S^2 \frac{\partial^2 C}{\partial S^2} - rC = 0

方程式を解くには、満期の条件(コールなら C(S,T)=max⁡(S−K,0)C(S, T) = \max(S - K, 0))などの境界の条件が要ります7。解の式と使い方はブラック・ショールズ・モデルで扱います。

この式には、μ\mu が入りません。μ=r\mu = r としても同じ式になるため、この評価はリスク中立評価と呼ばれるようになりました7。

手計算で確かめられる簡単な解が 2 つあります8。1 つは V=SV = S(原資産そのもの)で、∂V/∂t=0\partial V/\partial t = 0、∂V/∂S=1\partial V/\partial S = 1、∂2V/∂S2=0\partial^2 V/\partial S^2 = 0 を式に入れると、rS×1−rS=0rS \times 1 - rS = 0 です。もう 1 つは V=Ke−r(T−t)V = K e^{-r(T-t)}(満期に KK を確実に受け取る約束の価値)で、∂V/∂t=rV\partial V/\partial t = rV のため、rV−rV=0rV - rV = 0 です。どちらも、現金と原資産だけで作れる価値で、方程式を満たします。

前提と限界

伊藤の補題は、関数が滑らかなことと、過程が上の形の確率微分方程式に従うことを前提にします1。微積分の約束も 1 つに決まっているわけではありません。伊藤の積分と違う項(−12f′′ dt-\tfrac{1}{2}f''\,dt)を持つ別の積分の定め方もあります。将来を見られないという前提に合うのは伊藤積分で、資料はこれを時間の入り方として自然としています9。別の定め方の資料を読むときは、補正の項の符号と、積分の定義を確かめる必要があります。

ブラック・ショールズの偏微分方程式は、ボラティリティ一定の幾何ブラウン運動と、資金の出し入れのない組み合わせを絶えず組み替えられることを前提にして導きました。実際の市場では、これらの前提が外れます。ボラティリティが行使価格によって違うのは、その一例です。

この記事が書いていないこと

伊藤積分の厳密な定義(区間の左端の値で作る和の極限)と、伊藤の補題が成り立つ関数の厳密な条件、複数の変数や、道筋が連続でない過程は、この記事では扱いません。

注

  1. MIT「Lecture 18: Itō Calculus」(18.S096, 2013 年秋)の 1 節(1〜3 ページ)の式 (1.2)、定理 1.1 と証明、例 1.3 (ii)。資料の BtB_t は WtW_t に置き換えています。 ↩ ↩2 ↩3 ↩4 ↩5 ↩6 ↩7

  2. 同「Lecture 18: Itō Calculus」の定義 1.2 と例 1.3 (i)(2〜3 ページ)。積分の形(XT=X0+∫μ ds+∫σ dWsX_T = X_0 + \int \mu\,ds + \int \sigma\,dW_s)は、この定義から書いた表記です。 ↩ ↩2

  3. 同「Lecture 18: Itō Calculus」の 2 節(4〜5 ページ)の定義 2.1、定理 2.3、例 2.4、定理 2.5。分散 0.04 は、等長性の右辺 0.22×10.2^2 \times 1 の計算です。 ↩ ↩2 ↩3 ↩4 ↩5

  4. MIT「Lecture 17: Stochastic Processes II」(18.S096, 2013 年秋)の定理 2.5(4 ページ)と後の段落(5 ページ)。表の値は、増分を ±Δt\pm\sqrt{\Delta t} としたランダムウォークと g(t)=tg(t) = t の手計算です。 ↩ ↩2

  5. 資料の定理 1.1(Lecture 18、2 ページ)の式に、f=ln⁡Sf = \ln S などを入れた計算です。表の値は e0.03e^{0.03}、e0.05e^{0.05} の 100 倍を、小数第 2 位に四捨五入しています。 ↩

  6. Martin Haugh「Black-Scholes and the Volatility Surface」(Columbia University, 2013 年秋)の 1 節(1 ページ)の式 (1)〜(5)。配当のない株のコールが対象で、組み合わせの価値は PtP_t と書かれています。 ↩ ↩2

  7. 同「Black-Scholes and the Volatility Surface」の 1 節(2 ページ)の式 (6)〜(8) とその後の段落。コールの境界条件と、μ=r\mu = r としても同じ式になることもここにあります。 ↩ ↩2 ↩3

  8. 資料の式 (8)(Haugh、2 ページ)に、V=SV = S と V=Ke−r(T−t)V = K e^{-r(T-t)} を入れた計算です。後者は、tt による偏微分が rVrV になります。 ↩

  9. MIT「Lecture 18: Itō Calculus」の例 1.3 の後の Remark(3〜4 ページ)。別の約束の例は df=f′(Bt) dBt−12f′′(Bt) dtdf = f'(B_t)\,dB_t - \tfrac{1}{2}f''(B_t)\,dt です。 ↩